テキスト ボックス: プール学院
 (居留地4番、居留地9番、居留地12番)
 プール学院の歴史を辿るとC.F.ワレン師との関係が深いことが分かる。ワレン師は大阪を拠点にキリスト教伝道を進めていたが、子供の教育のことで困っていた。英国の本部に依頼し、派遣されたのは香港で教育者として経験のあったミス・オクスラドである。
 オクスラドは東洋女子教育協会に所属していた。1877年に来日、英国人と日本人の子供たちの学校を始めた。場所は川口居留地4番である。教室は3番にあった小会堂を移設して使用した。しかし、日本語力が充分でなかったため、英国人だけの教育に専念した。
 1879年、オクスラドは新たに学校を始めた。永生学校と呼ばれた学校には信徒子弟の男子も学んでいた。しかし、1884年9月、男子は新たに開校となった三一小学校に移った。10月、校長はミス・ボルトンに代わった。永生女学校の名前はこの後に改称したと考えられる。
 プール監督は英国聖公会が派遣する最初の日本監督として1884年の初めに来日した。神戸に住み、三一神学校の定礎式、開校式などの司式を執り行った。しかし、病のため帰国、翌年逝去された。プール監督を記念するため、新しい学校計画がすぐに始まった。新たに土地(居留地17番)の購入など準備が進められ、1890年、居留地12番にレンガ造り二階建ての建物が完成した。
 

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テキスト ボックス: 永生学校(居留地4番) 
※桃山学院所蔵