川口居留地                  次へ 目次へ

 

  川口居留地が設置された場所は、当時の大坂市中の西端にあたる。居留地ができる少し前まで船番所(御船手)が置かれ、西国から入って来る船舶の監視をした。朝鮮通信使や琉球の江戸上りの船も船番所で検査を受け、大坂に上陸した。

1858年、日米修好通商条約の締結。 その後、英国など5カ国と条約を結び、開市場であった大阪は18689月に開港となり、川口居留地が外国人に競売された。江戸時代、「天下の台所」として経済の中心であった大阪に期待した外国商人たちが殺到した。

川口居留地の規模は他の居留地(横浜・長崎・神戸・東京築地)と比べて最も狭く、居住地の総面積は約25,600u(7746.5坪)、一区画当りの面積は約300坪であった。

しかし、まもなくその期待は裏切られ、外国商人たちは神戸に移動した。港の不整備、阪神間の鉄道開通、大阪経済の衰退、不正取引に対する厳しい取締りなどである。  

開港直後に来阪した宣教師たちは居留地に住むことは出来ず、隣接する雑居地に住居を確保し、伝道を開始した。仮会堂や小さな礼拝堂を設置したが、「切支丹高札」が撤去された後の1875年頃には居留地内は寂しい場所となっていた。

キリスト教禁制は廃止したのではなく、庶民に周知徹底したので「高札」を撤去したと明治政府は説明したが、欧米では伝道の自由が保証されたとされ、宣教師たちは日本に向けて旅立った。空家になっていた洋館に宣教師たちが住むようになり、川口居留地に生活の場が戻ってきた。子供たちが遊ぶ姿も見られるようになった。

1884年の川口居留地の居住者や施設を見ると(4ページ)、26区画の内、キリスト教関係の住居、施設が20区画を占め、キリスト教伝道の拠点としての性格を明確にした。宣教師たちの強い要望もあり、1886年にはさらに10区画の居留地が拡張されることになった。

1899年、条約改正により外国人居留地は廃止されることになった。川口はその後、川口華商と呼ばれた中国人貿易商が活動する場と変わり、中華料理店なども多くあった。

 

 

 

川口居留地と大阪の文明開化

 

 大阪の近代化は造幣局と川口居留地から広まったといわれる。大阪に遷都の計画もあったためか、経済近代化の基本でもある貨幣製造を長崎の商人グラバーに依頼した。香港の旧造幣局の設備を買取して大阪に移設、技術者なども招聘した。造幣局の設置は、西洋建築、煉瓦、瓦斯燈、鉄道、電信、銀行、硫酸などの工業製品など、新しいものを生み出した。

 一方、川口居留地は外国商人、宣教師たちの生活の場であり、西洋の生活様式が広まった。パン、牛乳、ポン水、クリーニング、オルガン、ホテル、西洋料理、理髪、街燈、歩道、テニス、サッカーなど。

 1874年、川口居留地と木津川を隔てた江之子島に大阪府庁舎が建設になった。江之子島政府とも呼ばれ、大阪が世界にむけて門戸を広げる象徴的な建物であった。

 

 

*『上方』第99号より