テキスト ボックス: 平安女学院
 (雑居地、居留地14番、居留地6番)
 平安女学院の誕生地は大阪であった。 E.G.エディーが来阪したのは1874年11月のことである。翌年1月には学校を始めている。エディーの学校と呼ばれた学校はその後、居留地14番に学校を移した。さらに1879年、川口居留地6番にあった元オーサカ・ホテルを購入し、二階は寄宿舎として使用するためベランダ部分には窓を取り付けた。学校は順調に推移し、エディーの学校は1880年に照暗女学校と改称した。
 エディーは親の看護のため1881年には帰国するが、後任として来日したのはB.T.ミキーである。女学校規則を制定し、生徒数は50名を超えるようになった。日本聖公会が組織成立した1887年の頃になると校舎の老朽化などもあり、生徒数の減少が続いた。米国聖公会の伝道活動が京都で行われるようになると、学校の京都移転が検討された。1895年、平安女学校が開校した。

テキスト ボックス: エディーの学校(居留地6番)  
※『SOM』より
                          
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