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第3回 松浦 道夫さん (63年
経済学部卒 桃山学院大学学長) |
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2008年4月23日(水)、桃山学院大学学長である松浦道夫学長に学生時代のお話を
伺いました。
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新設の桃大へ進学した理由
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一番の理由は、八代理事長(当時)※にお会いしたことです。ウエイトリフティングでインターハイに出場したことがあって、桃大の体育教員に就任される先生から声が掛かってね。高校の校長が桃中OBだったこともあって、「君のような性格のものは出来上がった学校へ行くより、新しいところへ行け!」と、強く勧められました。
とにかく大学ができる昭和町へ行きました。どこに大学があるのかと思ったら、桃高の中にありました。それまで、ウエイトリフティングで関大や関学に行って大学はあんなものだと思っていたから、びっくり仰天。
八代理事長にお会いすると「君は力もちか」と聞かれて、丸坊主の頭をなでられたんですよ。
「君は慶応や早稲田を知っとるか?」、「慶応や早稲田は偉い人が創った。でも桃山は神様が創った」と。そして「まず神様が創って、後を我々凡人が集まって創った学校である」と、こう言うんです。「慶応や早稲田は日本の大学、桃山は世界の大学や」と。
これは面白いことを言う人だなと思いましたね。そして私がふざけて聞いたんです、
「でも、先生、大学って言ってもどこにあるんですか?」って。そうしたら、
「今に神様が立派な大学を創って下さる」と答えたんですよ。
この人は面白いと思ってね、「俺、ここに来る」って、弾みで来たという感じです。
※八代斌助〈ヤシロ ヒンスケ〉(1900〜1970)
1947年8月、日本聖公会主教会議長に就任、以後1970年の逝去まで首座主教。
1956年11月に学校法人桃山学院理事長に就任(〜1970年10月)、大学開学時(1959年4月)の理事長である。
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桃大の第1期生
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1期生でね。開学式典にはイギリスからカンタベリー大主教がお見えになって、華々しく式典をやりましたよ。初代学長の勝部謙造先生がインタビュー兼通訳というような形で。日本にキリスト教の聖公会が渡来して100年目ということです。記念すべき時
でしたね。カンタベリー大主教は大きい人でね。私は一番前に座って式に出ておりました。
学生数は380名程で、先生の数も少なく、こじんまりした式でした。昭和町のカンタベリーホール。今のC館でやったんです。「桃山さすがやなぁ」と思いましたね。
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大学でのクラブ活動 |
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ウエイトリフティングで引っ張られて来たけれど、練習場も道具も何にも無し。結果的に、それが今の積極的な性格を作る素地になったと思います。本当に何も無くて。あったのは、先生の熱い思い、学校創りへの情熱、それは伝わりましたね。
私が1年の時、秋の国体に出場することになると、皆がカンパしてくれて、壮行会を開いてくれたんです。そこで気持ちが変わった。「僕が大学の名前を売るぞ」という考え方にね。「桃山で行くぞ!やってやるぞ!」というふうに、腹が決まりました。
大学に来てウエイトリフティングを始めたときには全然だめやと思いましたね。そこで、桃高に目をつけて、桃高にウエイトリフティング部を作って、そして
私が4年の時には、桃高の生徒がインターハイへ3人も4人も出場するようになっていました。そういう生徒が桃大へ進学して、桃大は一気に強くなりました。
どんなことをするにも中学や高校をベースにしっかりやっておいて、そこから何人かでも桃大へ来れば大学にとってプラスになると思いますね。だから学長に就任して最初に、「オール桃山」というフレーズを打ち出し
ました。
やっぱり私学は一貫教育を目指さなければと思いますね。それは志願者数確保の入試政策ではない。現実的に必要やと思います。一部分でもいい、桃高で大らかに育った生徒が桃大に来てくれたらいいという思いがあ
りました。学長になる時に、「オール桃山」を作りたいっていうのは全部体験から考えたことです。
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開学当時のキャンパスの雰囲気 |
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家族的な雰囲気がありましたね。先生の目が学生に届くから家族的というのもあり、いろんな現場で仲良かったね。
当時桃高の先生が、朝、校門に立っていて、生徒指導をやっていました。遅刻しそうになったら「走れ〜!」と言ってね。大学生も間違われて「走れ〜!」って言われてました。それと、桃高から桃大に進学した学生がよく怒られてい
ました。「早う卒業せな!」って言って。「いや大学行ってるよ」、「嘘言うなぁ〜!」って。本当にね、雰囲気はファミリーですね。
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